法然上人知多二十五霊場由緒



『法然上人二十五霊場』は、難波恋西庵の順阿霊澤上人が、「教えの流れを汲む者は、その源を知るべきである」と明和三年(一七六六)に
『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』を記し、法然上人一代の遺跡を第一番の美作誕生寺より二十五番の京都の知恩院に至る宗派を超えた寺院を
 選定され、巡拝の礎を築かれた霊場であります。

 
法然上人行状絵図(勅修御伝)第三十七巻には「念仏の興行は、愚老一期の 勧化成り。されば念仏を修せん所は、貴賤を論ぜず、海人漁人が、
 とまやまでも、皆これ、予が遺跡なるべし」と記されており、「念仏の声するところ、わが遺跡なり」とお示しいただいております。

 愛知県には法然上人尾張二十五霊場と法然上人三河二十五霊場が現存しますが、顧みますに知多半島にはお念仏を歓ぶ霊場がございません。

 茲に宗祖法然上人八百年大遠忌を迎えるに当り、御嶽山洞雲寺の光空順基上人が発起し、協力寺院の賛同を得て、浄土宗、西山浄土宗、
 浄土宗西山深草派のご寺院で『法然上人知多二十五霊場』を開創し、法然上人のご遺徳を偲び、お念仏の弘通の慈光を賜り、
「摂取不捨」の阿弥陀仏の本願が心の闇を照らし、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申される中に、蓮の花が開くことを念じてやみません。                                    


                                                            合 掌
                                                                                        
  平成二十三年正月二十五日